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おはようございます。
尼子でございます。
昨日は20時過ぎにはもう就寝していたせいか、
とても早起きで、何かすがすがしいです。
さて、仕事も若干だけど、落ち着いてきた感がある尼子です。
先週に突発的に帰郷した尼子でございますが、
例の如く、山登りを満喫してまいりました。
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石井砦(石井要害)
鳥取県米子市石井
米子に到着後、遅めの昼食を取りに行く途中で、遠目に見えたこんもりとした小山。
トッシーと「あの山、絶対に城じゃろう?」
って事で登ってみたら案の定城跡。
かなりハッキリと郭跡が残っており、ちょっと感動。
山も全く高く無いので、登山と言う程の事も無く、
ホントに気軽に登れました。
日本城郭大系によると「米子市内にたったひとつのはっきりした館跡」とある。
近くにある橋本城も登りたいなぁ。
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真山城(新山城)
島根県松江市法吉町
尼子再興軍の本拠となった新山城。
なかなか行けずに居たのですが、漸くここにきて初登城できました。
登山道は整備されているので、比較的余裕で登れます。
見事なる土橋をはじめとする各遺構群を堪能しつつ、
40分ほど登ると主郭に辿りつけます。
L to R アマゴ、いっちゃん、とっしー、PINO兄
主郭にて「尼子勝久公之碑」が目に飛び込んで来た時、ボクは思わず平伏してしまいました。
石垣や他の遺構も探索しようと遊歩道から外れると速効で藪(笑)
ココは整備されているだろうから、ナタとかは要らんだろうとナメてたらこのざま・・・
進めない事は無いんだけど、雑草雑木が多く、遺構が良く解んない。
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白鹿城
島根県松江市法吉町
尼子十旗第一の要害。
小ぶりだけど、縦掘や土塁が何か所かで見られます。
今回はテクノアーク島根側より出ている林道脇からの登山口
から登ったので、主郭までスグに到着。
山登りとしてはやや不満が残りましたが、時間が無い場合は良い手かも。
案内表示もしっかりあるので、
少し離れた場所の小白鹿や大高丸などの遺構にも迷う事無く辿りつけます。
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高小屋城
島根県安来市宇波
左)堀切(北側を望んで) 中)主郭 右)主郭より一段下の腰郭から主郭を望む
前回迷った高小屋城。
主郭へ通じる鉄塔脇が崩落し、主郭に行けなかった苦い思い出のあるこの城跡。
今回は装備も完璧、場所も解っているので今回は迷わず来れました。
てか、遭難する様な山ではありませんでした(笑)
しかし、まだ四月なのにもう主郭はスーパー藪化しておりました。
遺構は見辛いけど、やっぱり城跡はこうでなくちゃ!(笑)
で、今回は時間的に最後となるので、縄張り図に無い遺構を探そうと言う事で
踏査しまくりました。
トッシーが「あそこ怪しいんじゃないか?」と言うところの、
斜面を降りて見てみると二つの場所で遺構らしきものが!
腰郭より3段目以降の2郭と、鉄塔より北西にある細い郭を北側に下った所で遺構を発見。
尼子の目星をつけたところは何も無く…(苦笑)
トッシーの城郭探査能力が目覚ましく発達しております。
最早ボクよりも凄いです…(笑)
嗚呼、時間を作って、是非とも一緒に研究踏査したいなぁ~と思いつつ、
日も暮れだしたので下山。
何故かお遍路の手ぬぐいを掲げてパチリ。
そして、皆で寿司を喰って温泉に入って、
いやいやながら帰路につきました。
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みんなお疲れ様でした!
そして、ありがとうでした!!
で、大阪が近づいて来れば来るほど、ため息が出まくり、
家に着いた途端、無常のあまり死にたくなりました(笑)
☆月山富田城
左:塩谷口城門付近 中:塩谷口側面石垣 右:七曲の石段
左:二の丸の石垣 中:大堀切より二の丸郭を望む 右:本丸の山中幸盛塔
月山城は、かつて11カ国(日本の1/6)を支配した、尼子氏の本拠でした。
山全体が巨大な要塞となっており、まさに鉄壁の防御、難攻不落の堅城であると言う事が素人目にも一目瞭然なお城です。
尼子氏もこの城が鉄壁の要塞であると言う事を判っているからこそ、何度も大軍に包囲されても、長い篭城戦になっても臆する事無く、果敢に戦えたのでしょうね。
毛利もそりゃ欲しがるわな~。と思いました(笑)
て言うか、ある程度有名なお城なので、月山富田城の由来や尼子氏のエピソードなどは他のサイト様に譲ります。(笑)
☆高小屋城
高小屋城は、どうやって行けば良いのかが全く分からず、すれ違った小母さんに尋ねると、高小屋城はお爺さんが詳しいと言う事で、お爺さんを紹介してもらいました。
実は、このお爺さんは郷土史を熱心に研究されている上に、資料本まで執筆されたと言う、とても凄い方だったのです!
城跡に向かう途中、わざわざ資料のコピーをとって下さり、登城口までの案内もして下さいました。
とても親切にして頂いたので、お礼をしたかったのですが、生憎何もお土産になる様なモノも持っていないし・・・かと言って、お金を渡すのもいやらしいどころか失礼やし・・・(笑)
丁重に心からお礼と感謝の気持ちを述べて、お爺さんと別れました。
さて、高小屋城。わくわくしますが、お爺さん曰く、「整備もされていない上に、この山に入る人も滅多にいないので、どうなっているか分からないから、気をつけて!危ないよ!」と。
仰るとおり本当に怖い思いをしました。
何が怖かったのかと言うと、一応僕も山に入る時は、必ず地形図と方位磁石は携帯しているので、滅多な事では迷わないとは思っていたのですが、道と言っても、足の踏み跡も全然無いし、どの山でも結構目にする、ハイカーさん等が目印として木に付けているマークも途中から全く無くなった上に、結構急な斜面を登る事になってしまったので、本当に道合っているのか?と。オマケに、携帯は圏外・・・ マズイっす。
もし、道を間違えてたら、マジで遭難やん!って言う不安と恐怖に襲われました。
(実は山を降りる時に分かった事なんですが、途中の道は外れていた様です。こわっ!)
左:馬場 中:堀切 右:主郭の切岸に聳える鉄塔
しかし、何とか縄張図にもある馬場であろう細長い2段の郭に出たので安心しました。
そのまま、尾根沿いに進んでいくと、結構な規模の堀切がありました。
しかも、遺構の保存状態がかなり良いので(人が滅多に入って来ないんだから、当たり前か(笑))かなり興奮しちゃいました!
で、いよいよ主郭へ!と思ったのですが、主郭へ登る道らしきものが
どこにも見当たらない・・・
斜面を直登して主郭へ行こうと思ったのですが、この切岸は半端じゃない傾斜だったので、諦めました・・・・
そして、泣く泣く、城を降りました。
今日は、城跡の事でも書こうかな~っと。
☆横田山城(森山城?)
左:登城口 中:2郭より主郭部を望む 右:忘れた・・・多分主郭の土塁か?
恐らく、ここが森山城と言うのなら、山中鹿之助の戦友・秋上伊織介久家(あきあげ いおりのすけ)の居城跡だと思います。
◎講釈たれて、よかですか?◎
秋上氏は、神魂(かもす)神社の大宮司も務める出雲では有力な豪族で、尼子氏に早くから従属した。
三郎左衛門 綱平は大永3年(1523)から経久公に仕え、息子・伊織介 久家を義久公の近習に送るなど、かなりの尼子贔屓であったらしい。
伊織介は尼子分限帖(これには、秋宅 庵介とある)によると、侍大将として備後国内に一万石の所領を拝領していたらしい。
永禄9年(1566)に尼子氏が毛利に事実上滅ぼされた後、一度は毛利に服属するが、永禄12年(1569)の勝久公を総帥として展開する、尼子氏復興戦においても、秋上父子はこれに逸早く従属した。
しかし、伊織介は多久和城の防衛戦で、まともに戦う事無く敗走したり、月山富田城奪回戦でも、父子共に毛利側の策略に嵌ってしまった為に大敗北を喫してしまう。
こう言った不手際が続いたので、次第に面目が立たなくなり、布部山合戦の敗北後の、元亀2年(1571)に毛利に降参する。
初めは毛利も大いに喜び優遇したが、秋上父子はあまりにも尼子氏に近すぎた為、最後には冷遇されて、結局所領を没収され秋上氏は没落して行った・・・(涙)
◎ご清聴、かたじけのう存じまする・・・◎
現地の人に出会えなかったので、詳しい話も聞けなかったですし、
案内板とかも無かった(当たり前ですが)ので、憶測で書いています。
ですので、全然見当違いの事を言っているかもしれません・・・
ひょっとしたら、権現山城が森山城なのかも・・・(笑)
ともかく、すんごいプリミティブな城で、雰囲気満々。とても良い感じです。
この大手道を伊織介と鹿之助が肩を並べて歩いていたのか~と妄想しながら、登ってました(笑)
主郭からの展望は・・・
木が生い茂っていたので、そんなに良くはなかったのですが、
木々の間より垣間見れる中海も、なかなかオツなものだなぁと(笑)
堀切の跡、竪堀らしき溝、石垣らしい石組みや帯郭などの遺構も色々と残っていました。
良いお城でした。もう一度行きたいお城です。
☆忠山城
右:山中鹿之介の鎮魂碑だったか、一族のお墓だったか・・・忘れました。
尼子勝久公を総帥として、出雲に上陸した尼子復興軍が最初に奪取した城砦です。
今は、標高290mの山頂部にNTTの電波塔が聳え建っております。
(施設内は立入禁止っす。入っちゃダメっすよ!)
門の横の細い道(?)を少し進むと、もう目の前は断崖です。
その絶壁スレスレに主郭へ続く階段あり、コレを登るのですが、
足が竦んで竦んで、ちょっとビビりました。滑落死しそうで怖かったです。(笑)
しかし、広がる景色は最高で、向こうに見えたのは千酌の浜でしたでしょうか?
遺構は?・・・すみません。
正直二回も来ているのにも拘らず、わかりません・・・未熟者ですみません。(笑)
尼子勝久公と山中幸盛や立原久綱そして、多数の無名の尼子遺臣達が、
滅んだ尼子家と己を再興すべく、この城に身を寄せ、様々な想いを馳せて、
計略を練り、体を鍛錬し、そして夢を見たお城。
しかし、ここは10年に及ぶ、長く辛い悲闘の始まりのお城だったわけです。
そんな事を主郭にて、壮大な景色に目をやりつつ考えていたら、
無性に胸が熱くなり、自然と涙が込み上げて来て止まりませんでした・・・
そして、今の自分が何と中途半端で、筋の通っていないダサイ生き方をしているのか!と自責し、かつ奮い立ったのを憶えています。(独立して一年くらい経った時だったでしょうか?)
僕にとって、道標みたいなお城なので、自分を見失いそうになった時にはまた行きたいです。
てか、どこでも良いのでお城行きたい・・・
大殿早く帰ってこないかなぁ。(笑)
鉄道系(旅鉄、乗り鉄)・そして、バンドなど色々デス
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