×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
日記と言っても、仕事の事ばかりでおもんないので、
今日は、城跡の事でも書こうかな~っと。
☆横田山城(森山城?)
左:登城口 中:2郭より主郭部を望む 右:忘れた・・・多分主郭の土塁か?
恐らく、ここが森山城と言うのなら、山中鹿之助の戦友・秋上伊織介久家(あきあげ いおりのすけ)の居城跡だと思います。
◎講釈たれて、よかですか?◎
秋上氏は、神魂(かもす)神社の大宮司も務める出雲では有力な豪族で、尼子氏に早くから従属した。
三郎左衛門 綱平は大永3年(1523)から経久公に仕え、息子・伊織介 久家を義久公の近習に送るなど、かなりの尼子贔屓であったらしい。
伊織介は尼子分限帖(これには、秋宅 庵介とある)によると、侍大将として備後国内に一万石の所領を拝領していたらしい。
永禄9年(1566)に尼子氏が毛利に事実上滅ぼされた後、一度は毛利に服属するが、永禄12年(1569)の勝久公を総帥として展開する、尼子氏復興戦においても、秋上父子はこれに逸早く従属した。
しかし、伊織介は多久和城の防衛戦で、まともに戦う事無く敗走したり、月山富田城奪回戦でも、父子共に毛利側の策略に嵌ってしまった為に大敗北を喫してしまう。
こう言った不手際が続いたので、次第に面目が立たなくなり、布部山合戦の敗北後の、元亀2年(1571)に毛利に降参する。
初めは毛利も大いに喜び優遇したが、秋上父子はあまりにも尼子氏に近すぎた為、最後には冷遇されて、結局所領を没収され秋上氏は没落して行った・・・(涙)
◎ご清聴、かたじけのう存じまする・・・◎
現地の人に出会えなかったので、詳しい話も聞けなかったですし、
案内板とかも無かった(当たり前ですが)ので、憶測で書いています。
ですので、全然見当違いの事を言っているかもしれません・・・
ひょっとしたら、権現山城が森山城なのかも・・・(笑)
ともかく、すんごいプリミティブな城で、雰囲気満々。とても良い感じです。
この大手道を伊織介と鹿之助が肩を並べて歩いていたのか~と妄想しながら、登ってました(笑)
主郭からの展望は・・・
木が生い茂っていたので、そんなに良くはなかったのですが、
木々の間より垣間見れる中海も、なかなかオツなものだなぁと(笑)
堀切の跡、竪堀らしき溝、石垣らしい石組みや帯郭などの遺構も色々と残っていました。
良いお城でした。もう一度行きたいお城です。
☆忠山城
右:山中鹿之介の鎮魂碑だったか、一族のお墓だったか・・・忘れました。
尼子勝久公を総帥として、出雲に上陸した尼子復興軍が最初に奪取した城砦です。
今は、標高290mの山頂部にNTTの電波塔が聳え建っております。
(施設内は立入禁止っす。入っちゃダメっすよ!)
門の横の細い道(?)を少し進むと、もう目の前は断崖です。
その絶壁スレスレに主郭へ続く階段あり、コレを登るのですが、
足が竦んで竦んで、ちょっとビビりました。滑落死しそうで怖かったです。(笑)
しかし、広がる景色は最高で、向こうに見えたのは千酌の浜でしたでしょうか?
遺構は?・・・すみません。
正直二回も来ているのにも拘らず、わかりません・・・未熟者ですみません。(笑)
尼子勝久公と山中幸盛や立原久綱そして、多数の無名の尼子遺臣達が、
滅んだ尼子家と己を再興すべく、この城に身を寄せ、様々な想いを馳せて、
計略を練り、体を鍛錬し、そして夢を見たお城。
しかし、ここは10年に及ぶ、長く辛い悲闘の始まりのお城だったわけです。
そんな事を主郭にて、壮大な景色に目をやりつつ考えていたら、
無性に胸が熱くなり、自然と涙が込み上げて来て止まりませんでした・・・
そして、今の自分が何と中途半端で、筋の通っていないダサイ生き方をしているのか!と自責し、かつ奮い立ったのを憶えています。(独立して一年くらい経った時だったでしょうか?)
僕にとって、道標みたいなお城なので、自分を見失いそうになった時にはまた行きたいです。
てか、どこでも良いのでお城行きたい・・・
大殿早く帰ってこないかなぁ。(笑)
今日は、城跡の事でも書こうかな~っと。
☆横田山城(森山城?)
左:登城口 中:2郭より主郭部を望む 右:忘れた・・・多分主郭の土塁か?
恐らく、ここが森山城と言うのなら、山中鹿之助の戦友・秋上伊織介久家(あきあげ いおりのすけ)の居城跡だと思います。
◎講釈たれて、よかですか?◎
秋上氏は、神魂(かもす)神社の大宮司も務める出雲では有力な豪族で、尼子氏に早くから従属した。
三郎左衛門 綱平は大永3年(1523)から経久公に仕え、息子・伊織介 久家を義久公の近習に送るなど、かなりの尼子贔屓であったらしい。
伊織介は尼子分限帖(これには、秋宅 庵介とある)によると、侍大将として備後国内に一万石の所領を拝領していたらしい。
永禄9年(1566)に尼子氏が毛利に事実上滅ぼされた後、一度は毛利に服属するが、永禄12年(1569)の勝久公を総帥として展開する、尼子氏復興戦においても、秋上父子はこれに逸早く従属した。
しかし、伊織介は多久和城の防衛戦で、まともに戦う事無く敗走したり、月山富田城奪回戦でも、父子共に毛利側の策略に嵌ってしまった為に大敗北を喫してしまう。
こう言った不手際が続いたので、次第に面目が立たなくなり、布部山合戦の敗北後の、元亀2年(1571)に毛利に降参する。
初めは毛利も大いに喜び優遇したが、秋上父子はあまりにも尼子氏に近すぎた為、最後には冷遇されて、結局所領を没収され秋上氏は没落して行った・・・(涙)
◎ご清聴、かたじけのう存じまする・・・◎
現地の人に出会えなかったので、詳しい話も聞けなかったですし、
案内板とかも無かった(当たり前ですが)ので、憶測で書いています。
ですので、全然見当違いの事を言っているかもしれません・・・
ひょっとしたら、権現山城が森山城なのかも・・・(笑)
ともかく、すんごいプリミティブな城で、雰囲気満々。とても良い感じです。
この大手道を伊織介と鹿之助が肩を並べて歩いていたのか~と妄想しながら、登ってました(笑)
主郭からの展望は・・・
木が生い茂っていたので、そんなに良くはなかったのですが、
木々の間より垣間見れる中海も、なかなかオツなものだなぁと(笑)
堀切の跡、竪堀らしき溝、石垣らしい石組みや帯郭などの遺構も色々と残っていました。
良いお城でした。もう一度行きたいお城です。
☆忠山城
右:山中鹿之介の鎮魂碑だったか、一族のお墓だったか・・・忘れました。
尼子勝久公を総帥として、出雲に上陸した尼子復興軍が最初に奪取した城砦です。
今は、標高290mの山頂部にNTTの電波塔が聳え建っております。
(施設内は立入禁止っす。入っちゃダメっすよ!)
門の横の細い道(?)を少し進むと、もう目の前は断崖です。
その絶壁スレスレに主郭へ続く階段あり、コレを登るのですが、
足が竦んで竦んで、ちょっとビビりました。滑落死しそうで怖かったです。(笑)
しかし、広がる景色は最高で、向こうに見えたのは千酌の浜でしたでしょうか?
遺構は?・・・すみません。
正直二回も来ているのにも拘らず、わかりません・・・未熟者ですみません。(笑)
尼子勝久公と山中幸盛や立原久綱そして、多数の無名の尼子遺臣達が、
滅んだ尼子家と己を再興すべく、この城に身を寄せ、様々な想いを馳せて、
計略を練り、体を鍛錬し、そして夢を見たお城。
しかし、ここは10年に及ぶ、長く辛い悲闘の始まりのお城だったわけです。
そんな事を主郭にて、壮大な景色に目をやりつつ考えていたら、
無性に胸が熱くなり、自然と涙が込み上げて来て止まりませんでした・・・
そして、今の自分が何と中途半端で、筋の通っていないダサイ生き方をしているのか!と自責し、かつ奮い立ったのを憶えています。(独立して一年くらい経った時だったでしょうか?)
僕にとって、道標みたいなお城なので、自分を見失いそうになった時にはまた行きたいです。
てか、どこでも良いのでお城行きたい・・・
大殿早く帰ってこないかなぁ。(笑)
PR
この記事にコメントする
自己紹介
俗名:
あまこ
没後:
本年で 531 回忌を迎えました
性別:
非公開って事はオカマか?
没年:
1492/11/29
生業:
悪代官
世を忍ぶ性癖:
城址探訪(登山)・読書・沐浴・読経・写経
鉄道系(旅鉄、乗り鉄)・そして、バンドなど色々デス
鉄道系(旅鉄、乗り鉄)・そして、バンドなど色々デス
リンク
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
最新記事
(08/24)
(10/11)
(06/02)
(04/18)
(03/21)
(11/08)
(10/14)
(09/12)
(08/30)
(08/24)
ブログ内検索
記事分類
最古記事
(07/14)
(07/15)
(07/17)
(07/20)
(07/25)
(07/29)
(07/30)
(08/29)
(08/30)
(08/31)
フリーエリア
最新トラックバック