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あまこめが無駄にホザきまくってました。
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あざ~~~っす。(←誰の真似なの? 笑)
さて、今日も某取引先の方との飲み会だったのですが、
ラグビー時代の戦友・たくじが急用(ソフト系のトラブル)で来る事に
なりました!!
うわ~。どうしよう!今日約束入れていたんだけどなぁ・・・。
でも、久しぶりにたくじとも逢いたいし・・・
まぁ、何とかなるか!(笑)

取り敢えず、7時位に業者さんの方へ顔を出して、
駆けつけ三杯を頂戴し、少しだけお付き合いさせて貰って、
事情を伝えると快く席を立たせて下さいました。
本当にすみませんでした。埋め合わせします!

なんだかんだと家に帰ってきたのが、8時半前。
たくじが来る前には風呂に入っておきたかったんですが、
やっべ~! そう言えばたくじ9時に来るって言ってたよ!!!
慌てて、風呂に入ったのですが、蛇口をひねると同時に便意が・・・(泣)
ひねり出すものをひねり出して、もう一度風呂へ。
シャワーを浴びて髪を洗おうとした時についに携帯が!!!
「あけてくれ~!」とたくじの声。
ベショベショの上にフルチンのまま、玄関を開けに行きました。
こんな再会は無いよ・・・(恥)

で、風呂から出てみると、たくじは甲冑に目が行ったみたいで、
これを着てみたいとの仰せ。
相変わらず、好奇心が旺盛ですね。他の友達は誰も反応しないのに・・・
モノノフ以外の人間で反応したのはたくじで二人目。
もう一人はたいぞー。 って二人ともラグビー部やんか!
戦国フル装備に、ご満悦の様子でした。

それから、たくじがかねてから連れて行け~といっていた、
「今日しかない」へ。
痛風の発作が怖かったので、ビールはほどほどにしました(笑)
やっぱり、今日もサンマが美味しかったです!!
久しぶりに日本酒が飲めて嬉しかったです。(周りで日本酒を一緒に飲んでくれる人は、T社のC兄貴だけなので、本当に嬉しかった!(笑))
しかも、酔った勢いでラグビー部の恩師・青木先生に電話までしちゃいました。
先生も相変わらずお元気なご様子で、とても嬉しかったです。
なんだかんだと思い出話を咲かせていると、時間が経つのって早いですね~。
また、一緒に飲みに行こう!!
あと、青木先生との飲み会、絶対にやろうな!!



で、一時前に帰宅。

そして、大殿からのメールが!
うわ~~~。やっべ~~!忘れてたぁ!!
こればっかは、何ともならない!シャレにならんっす。
幸い、酔っ払っていなかったから良かったものの、酔っていたら・・・
仕事が絡んだ重要な話だったので、もうかなり焦りました。

明日(て今日ですね。)は、大殿と阪神電車の新車1000系の写真を撮りに、徳庵まで行ってきま~す!
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久しぶりに爆発しちゃった、痛風が。
今日はとある取引先の業者さんと飲みに行ってきました。
で、調子にのってガンガン飲んじゃいました。
しかも、いつもの痛風の薬を忘れた癖に、
僕はまだまだ現役っす!みたいなのりでイチビってしまいました・・・
だって、およそ7年ぶりのクラブだったんだもん。
そりゃ、飲んで踊ってしまいますよ・・・

でも、息が切れて切れて、体がついていかないんです。
もう、ぼくちんもオッサンなのかなぁ。
若い人達との間で生じる、ジェネレーションギャップと言うやつも、
全開に感じて来ました。
もう、ぼくちんはオッサンですよね。
オマケに痛風の発作も出ちゃって・・・
もう、ボクチンは完全にオッサンでした。


すみません。辛くなって来たのでもう寝ます。
日記サボってました。
だって、忙しかったんだもん。(ウソっす。言い訳っす。)

日曜日はPちゃんとお買い物。
て言っても、服とかじゃなく、日用品ですけどね。
車庫までちょっと遠いので、二人してチャリンコにて出陣~~。
てか、車庫までだけど・・・(笑)


この写真、ボクの顔が白で飛んでしまってるんだけど、
誰かの呪いが掛かっているのかも(笑)

買い物が終わってから、また水槽を買いに行って来ました。
もう今の90cm水槽には、コリタンを多く入れすぎて過密すぎるので、
これでは、コリタンのストレスになってしまう!!という事で、
違う水槽にもコリタンを入れよう!となったのですが、
今まで使っていた60cm水槽もそれにしては、狭すぎるので、
ADAの60x30の水槽にチェンジ!!
これで、更にコリタンを飼う事が出来ます!!!
Pちゃんもコリタン関係の出費には全く文句を言いません。
鎧とかだったら、嫌な顔されるんですけど・・・・(笑)

あぁ、もうコリタンだらけにしたい!!!!
てナ感じなので、今から水槽セットして来ます。
今日も昨日に引き続き、出雲のお城を紹介します!

☆月山富田城


左:塩谷口城門付近  中:塩谷口側面石垣  右:七曲の石段


左:二の丸の石垣  中:大堀切より二の丸郭を望む  右:本丸の山中幸盛塔

月山城は、かつて11カ国(日本の1/6)を支配した、尼子氏の本拠でした。
山全体が巨大な要塞となっており、まさに鉄壁の防御、難攻不落の堅城であると言う事が素人目にも一目瞭然なお城です。
尼子氏もこの城が鉄壁の要塞であると言う事を判っているからこそ、何度も大軍に包囲されても、長い篭城戦になっても臆する事無く、果敢に戦えたのでしょうね。
毛利もそりゃ欲しがるわな~。と思いました(笑)

て言うか、ある程度有名なお城なので、月山富田城の由来や尼子氏のエピソードなどは他のサイト様に譲ります。(笑)


☆高小屋城

高小屋城は、どうやって行けば良いのかが全く分からず、すれ違った小母さんに尋ねると、高小屋城はお爺さんが詳しいと言う事で、お爺さんを紹介してもらいました。
実は、このお爺さんは郷土史を熱心に研究されている上に、資料本まで執筆されたと言う、とても凄い方だったのです!
城跡に向かう途中、わざわざ資料のコピーをとって下さり、登城口までの案内もして下さいました。
とても親切にして頂いたので、お礼をしたかったのですが、生憎何もお土産になる様なモノも持っていないし・・・かと言って、お金を渡すのもいやらしいどころか失礼やし・・・(笑)
丁重に心からお礼と感謝の気持ちを述べて、お爺さんと別れました。

さて、高小屋城。わくわくしますが、お爺さん曰く、「整備もされていない上に、この山に入る人も滅多にいないので、どうなっているか分からないから、気をつけて!危ないよ!」と。
仰るとおり本当に怖い思いをしました。
何が怖かったのかと言うと、一応僕も山に入る時は、必ず地形図と方位磁石は携帯しているので、滅多な事では迷わないとは思っていたのですが、道と言っても、足の踏み跡も全然無いし、どの山でも結構目にする、ハイカーさん等が目印として木に付けているマークも途中から全く無くなった上に、結構急な斜面を登る事になってしまったので、本当に道合っているのか?と。オマケに、携帯は圏外・・・ マズイっす。
もし、道を間違えてたら、マジで遭難やん!って言う不安と恐怖に襲われました。
(実は山を降りる時に分かった事なんですが、途中の道は外れていた様です。こわっ!)


左:馬場  中:堀切  右:主郭の切岸に聳える鉄塔

しかし、何とか縄張図にもある馬場であろう細長い2段の郭に出たので安心しました。
そのまま、尾根沿いに進んでいくと、結構な規模の堀切がありました。
しかも、遺構の保存状態がかなり良いので(人が滅多に入って来ないんだから、当たり前か(笑))かなり興奮しちゃいました!
で、いよいよ主郭へ!と思ったのですが、主郭へ登る道らしきものが
どこにも見当たらない・・・
斜面を直登して主郭へ行こうと思ったのですが、この切岸は半端じゃない傾斜だったので、諦めました・・・・
そして、泣く泣く、城を降りました。
日記と言っても、仕事の事ばかりでおもんないので、
今日は、城跡の事でも書こうかな~っと。

☆横田山城(森山城?)


左:登城口  中:2郭より主郭部を望む  右:忘れた・・・多分主郭の土塁か?

恐らく、ここが森山城と言うのなら、山中鹿之助の戦友・秋上伊織介久家(あきあげ いおりのすけ)の居城跡だと思います。

◎講釈たれて、よかですか?◎
秋上氏は、神魂(かもす)神社の大宮司も務める出雲では有力な豪族で、尼子氏に早くから従属した。
三郎左衛門 綱平は大永3年(1523)から経久公に仕え、息子・伊織介 久家を義久公の近習に送るなど、かなりの尼子贔屓であったらしい。
伊織介は尼子分限帖(これには、秋宅 庵介とある)によると、侍大将として備後国内に一万石の所領を拝領していたらしい。
永禄9年(1566)に尼子氏が毛利に事実上滅ぼされた後、一度は毛利に服属するが、永禄12年(1569)の勝久公を総帥として展開する、尼子氏復興戦においても、秋上父子はこれに逸早く従属した。
しかし、伊織介は多久和城の防衛戦で、まともに戦う事無く敗走したり、月山富田城奪回戦でも、父子共に毛利側の策略に嵌ってしまった為に大敗北を喫してしまう。
こう言った不手際が続いたので、次第に面目が立たなくなり、布部山合戦の敗北後の、元亀2年(1571)に毛利に降参する。
初めは毛利も大いに喜び優遇したが、秋上父子はあまりにも尼子氏に近すぎた為、最後には冷遇されて、結局所領を没収され秋上氏は没落して行った・・・(涙)

◎ご清聴、かたじけのう存じまする・・・◎


現地の人に出会えなかったので、詳しい話も聞けなかったですし、
案内板とかも無かった(当たり前ですが)ので、憶測で書いています。
ですので、全然見当違いの事を言っているかもしれません・・・
ひょっとしたら、権現山城が森山城なのかも・・・(笑)

ともかく、すんごいプリミティブな城で、雰囲気満々。とても良い感じです。
この大手道を伊織介と鹿之助が肩を並べて歩いていたのか~と妄想しながら、登ってました(笑)
主郭からの展望は・・・
木が生い茂っていたので、そんなに良くはなかったのですが、
木々の間より垣間見れる中海も、なかなかオツなものだなぁと(笑)
堀切の跡、竪堀らしき溝、石垣らしい石組みや帯郭などの遺構も色々と残っていました。
良いお城でした。もう一度行きたいお城です。


☆忠山城


右:山中鹿之介の鎮魂碑だったか、一族のお墓だったか・・・忘れました。

尼子勝久公を総帥として、出雲に上陸した尼子復興軍が最初に奪取した城砦です。
今は、標高290mの山頂部にNTTの電波塔が聳え建っております。
(施設内は立入禁止っす。入っちゃダメっすよ!)
門の横の細い道(?)を少し進むと、もう目の前は断崖です。
その絶壁スレスレに主郭へ続く階段あり、コレを登るのですが、
足が竦んで竦んで、ちょっとビビりました。滑落死しそうで怖かったです。(笑)
しかし、広がる景色は最高で、向こうに見えたのは千酌の浜でしたでしょうか?
遺構は?・・・すみません。
正直二回も来ているのにも拘らず、わかりません・・・未熟者ですみません。(笑)

尼子勝久公と山中幸盛や立原久綱そして、多数の無名の尼子遺臣達が、
滅んだ尼子家と己を再興すべく、この城に身を寄せ、様々な想いを馳せて、
計略を練り、体を鍛錬し、そして夢を見たお城。
しかし、ここは10年に及ぶ、長く辛い悲闘の始まりのお城だったわけです。

そんな事を主郭にて、壮大な景色に目をやりつつ考えていたら、
無性に胸が熱くなり、自然と涙が込み上げて来て止まりませんでした・・・
そして、今の自分が何と中途半端で、筋の通っていないダサイ生き方をしているのか!と自責し、かつ奮い立ったのを憶えています。(独立して一年くらい経った時だったでしょうか?)

僕にとって、道標みたいなお城なので、自分を見失いそうになった時にはまた行きたいです。

てか、どこでも良いのでお城行きたい・・・
大殿早く帰ってこないかなぁ。(笑)
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自己紹介
俗名:
あまこ
没後:
本年で 531 回忌を迎えました
性別:
非公開って事はオカマか?
没年:
1492/11/29
生業:
悪代官
世を忍ぶ性癖:
城址探訪(登山)・読書・沐浴・読経・写経
鉄道系(旅鉄、乗り鉄)・そして、バンドなど色々デス
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